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2011年 08月 20日
フリードリヒ二世について初めて強い興味を持ったのは、数年前にNHKが「文明の十字路」というシリーズで「若き皇帝の決断」という題で放映したときだった。高校世界史でフリードリヒ二世というと、普通はプロイセン国王を指す。例の、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い抜き、プロイセンを列強の一つに押し上げた啓蒙専制君主である。 この番組で取り上げられたフリードリヒ二世は、13世紀を生きた神聖ローマ皇帝である。実はこちらのフリードリヒの方が、件のプロイセン王よりよほど「啓蒙」的である。 イタリアはシチリア島、パレルモで幼少期を過ごした。当時この地はキリスト教徒だけでなくイスラーム教徒、ユダヤ教徒など多宗教が混在し、民族的にもアラブ人、ユダヤ人、ノルマン人にギリシア人と他民族が混交する社会だった。早熟の天才だったフリードリヒは何でも貪欲に吸収し、ローマ教皇が派遣した家庭教師を驚かせるほどだった。彼にとって「イスラーム」とは、打倒すべき不倶戴天の敵ではなく、当時最高の水準を誇る先進文明だった。 一方で13世紀は、ローマ教皇権の絶頂期であり、十字軍が繰り返し呼びかけられた不寛容の時代だった。彼はこのような「文明の衝突」のただ中に生きなければならなかったのだ。キリスト教的狂信からほど遠く、ラテン語はもちろん六カ国語を自由に操り(なんとアラビア語も)、後にはイスラーム王朝のスルタンと手紙をやりとりしギリシア哲学について論じ合うという人物が。 最近「神聖ローマ帝国」(菊池良生)を読んで、改めてフリードリヒ二世の傑物ぶりに感銘を受けた。 普通の高校世界史ではこの皇帝のことは、まず教えない。触れることがあるとすれば、第五回十字軍を行った皇帝としてわずかに名前が出てくるだけだ。しかも第五回十字軍の扱いはきわめて軽く、手元にある世界史資料集には単に一行、「独皇帝フリードリヒ二世、一時的に聖地回復」とあるだけだ。しかし実はこの「一時的回復」の内容がすごいもので、彼は敵であるはずのエジプト・アイユーブ朝のスルタンのアル・カーミルと交渉し、平和裏に「聖地回復」を成し遂げている。この「十字軍」は戦っていないのだ。しかも彼はイェルサレムの王となるが、キリスト教とイスラーム教の共存を保証し、もしキリスト教世界から十字軍が派遣されるときにはその十字軍と戦いイスラームの君主を守ることを約している。このような「聖地回復」をローマ教皇が喜ぶはずはなく、彼は「聖地回復」後もローマ教皇派の軍隊と戦いに明け暮れなければならなかった。ローマ教皇と戦う彼・神聖ローマ皇帝の部隊の中核にあったのは、なんとイスラーム傭兵部隊である。徹頭徹尾、彼は中世キリスト教社会の異端児だった。 皇帝フリードリヒ二世と交渉したスルタンのアル=カーミルも厳しい立場に置かれた。イェルサレムをキリスト教の皇帝に明け渡したことを非難する声が各地にあがったのだ。 高校生がこうした事実を学ぶ意味は、きわめて大きい。未だに世界が宗教的狂信から自由になっていないからだけではない。宗教的狂信だけが平和の障害ではない。我々の身近な周囲を見回しても、我々がすぐに頭に血がのぼり好戦的に反応してしまう事柄は、ほかにも山ほどあるではないか。 しかしいつか、フリードリヒ二世が多くの世界史教科書・参考書で取り上げられる日が来るだろう。またそうならなければならない。 すでに例がある。大航海時代を生きたスペイン人修道士ラス=カサスという人物がいる。大航海時代、いわゆる「新大陸」ではスペイン人植民者による先住民虐待が横行していた。ラス=カサスは孤軍奮闘、スペイン人の不正と先住民の保護を訴え、当時のスペイン王にして神聖ローマ皇帝のカルロス一世に現状告発の手紙を書いた人物である。この人物は、私の高校時代の教科書には一行もなかった。しかし今の教科書・資料集の多くには、彼の名前がある。歴史観が変わったのだ。もはや我々は、大航海時代を単に、輝かしい近代の幕開けを告げる冒険と成功の物語として学ぶことはない。 いつか、フリードリヒ二世の名も、ラス=カサスと同様、多くの教科書に載るときがくるだろう。それを時代は要請していると思う。 2011年 08月 17日
渡辺謙 アメリカを行く「”9.11テロ”に立ち向かった日系人」という番組が終戦の日にNHKがオンエアした。 同時多発テロの時ブッシュ政権で運輸長官を務めた日系政治家ノーマン・ミネタ氏が紹介されていた。彼は同時多発テロ直後の憎悪と不信が渦巻く中で、「人種プロファイリング」に反対した。そして「イスラーム系市民」「アラブ系市民」というだけで航空機搭乗を拒否したりすることを拒み、世論の激しい反発を受けながら、その方針を守り抜いた。 人種プロファイリングに何故一貫して反対の姿勢を貫けたのかを渡辺謙から聞かれ、次のように語っている。「これが正しいのだと考えたら、揺らいではいけません。後に引かないのです。私は全く引き下がりませんでした。これは、正しいことなのです。憲法にのっとっているのです(This is Constitutional) 。 This is Constitutional. ミネタはこの言葉をさりげなく、しかし確信を持って語る。日本で全く使われることのないこのフレーズが、アメリカ社会の政治的言語として揺るぎなく定着していることを我々は知ることになる。 一方今の日本では、憲法のことが話題になることが、基本的にまずない。もし憲法が話題になったとしても、そのとき聞かれるのは憲法を否定的に語る言説ばかりだ。「憲法が日本を駄目にした」という趣旨の言葉ばかりが、飲み屋の政治談義から政治家の言説まで、至る所に蔓延している。 隣国と領土対立が起こったとき、政治家は国際協調をはからない。問題を平和的に解決する方策を探らない。逆に国内世論をあおり、無意味に他国を挑発する。それが愛国的行動だと、全国的影響力のあるマスコミが褒めそやす。 首相批判もそうだ。首相は今、国民の健康や生命を危険にさらすからと批判にさらされているのだろうか。もしそうなら、次の首相と内閣は、少なくとも今以上にやるべきことをやってくれるだろう。しかしそうではない。誰が総理になろうと、次の内閣では原発の再稼働が次々に行われていくだろう。その時、原発再稼働の理由となるのは絶対に”This is Constitutional”ではない。そんなことはあり得ない。憲法を度外視した経済的損得、憲法から切り離された生活上の利便性。これが今我々の社会で最大の神通力を持っている。そうした様々な理屈が、原発再稼働の理由として語られるだろう。 我々が日本国憲法を持っていることを忘れさせたい政治家。これを大量に我々は選出し続けてきたのだ。 NHKの番組ではミネタ氏の人種プロファイリング反対の背景として、ミネタ氏が太平洋戦争中に日系市民の強制収容所に送られた経験があり、戦後政治家となってからも一貫して人種差別に反対してきたこと、そして日系人強制収容に対する謝罪法の制定を勝ち取ってきたことが紹介されていた。それはもちろんあるに違いない。しかしミネタ氏をはじめとする日系市民の訴えをアメリカ社会が受け入れた背景の方を、我々は見失ってはならないと思う。それは"This is Constitutional"という言葉が、普遍的価値を持ち通用する社会である。これあればこそ、一時の行き過ぎや過ちがあっても、時がたてば再び理性的主張が通用するようになる。社会は行き過ぎからの復元力を回復する。日系人の強制収容に謝罪する法律が通ったのは、日本では超タカ派で保守的とされるレーガン政権下であった。 逆に今我々は、憲法を顧みない政治家が跳梁する中で、社会の方向舵を実質的に失いつつある。 2011年 08月 13日
本当はもう、原発のことなど考えたくなく、忘れてしまいたい。しかしそれができないでいる。自分の頭の中に思考停止回路を作っても、意味がない。我々は被曝した地域を塀で囲み、隔離・シャットアウトして暮らしていくわけにはいかない。風は吹き、水は流れ、人は動き、ものが運ばれる。いくら目を背けても、耳をふさいでも、厳しい現実は消えてなくならない。我々はもうダモクレスの剣の存在を知ってしまったのだ。 それなのにニュース報道では日々原発や放射能汚染に関する記事は小さくなっていく。逆に「停止中の原発再稼働の道を早く開け」と、多くの全国紙が社説などで主張している。 「今でも原発は有効な地球温暖化対策」 「原発なしには資源小国日本のエネルギー政策は成り立たない」 「自然エネルギーは不安定」 「電力不足が日本の産業の空洞化を加速する」等々・・・・。 何万という人を故郷から追う羽目になったのに。一つの県を丸ごと存亡の危機に追いやっているのに。「国産」という信頼の証しの食品ブランドを失ったのに。どこの産地のものかを日々気にし、それどころか「産地偽装」すら疑わなければならなくなりつつあるのに。これから海が、大地がどれだけ長い間、どれだけ広範囲に汚染され続けるかもわからないのに。 「福島」の惨状を知った上でなお、なぜこんな主張が続くのか私は理解できなかった。「原発の深い闇」(別冊 宝島)を読むと、その背景はわかる。東電をはじめ多くの電力会社がいかに多くの広告宣伝費を出し、新聞・テレビ・雑誌を操り、広告を支配してきたか、いかに多くの「文化人」「マスコミ関係者」が電力会社からの接待や金で潤っていたか、詳しく資料つきで告発されている。原発シンポジウムや公聴会での「やらせ」やサクラ発言が今問題となっている。しかしそれどころではない情報操作がずっと続けられてきた。しかも当事者の新聞・マスコミは今に至るまでこのことに関しては口を閉ざしたままだ。「自由社会」での世論工作がいかに巧妙に行われるか、恐ろしくなる。どこかの一党独裁国家の情報統制、ネット規制を嗤っているときではない。 やはりカネなのか。しかし原発記事を書いている一人一人、TV画面で顔をさらして発言をしている一人一人は、誰かの親であり、誰かの子であり、誰かの友人であり恋人であったり伴侶だったりするだろう。それなのに何の疑問も、迷いもためらいもなく、原発に頼り続ける国作りを主張できるものなのだろうか。それとも個人的には疑問や不安を感じていても、「社の報道方針」が決まれば、それに従い書き、論じることができるのだろうか。私にはやはりわからない。 我々の社会全体が、何かに囚われていると思う。今までも無数の事件、事故があったが、今回の原発事故は全く違う。被害と影響の甚大さはいうもまでもない。それに加え違うのが、この事故は「国策」が招いた事故だということだ。 原発は国策として進められた。だから、批判を許さなかった。建設反対の声が起こると異端化され、反対の論調がマスコミにのることを許さなかった。国策だから、報道への圧力も遠慮なかった。広告宣伝費が湯水のごとく使われたが、それらは我々の電力料金から出た。それでも儲かる仕組みが作られた。 原発建設は利権の大きな裾野を作った。常識として、これほどの事故を目の当たりにしたら、原発からの撤退を考えるのが電力会社としてまともな経営判断ではないかと思う。しかしそうはならなかった。原発は必ず儲かる玉手箱になったからだ。これほどの事故を前にしても、すべての電力会社が株主総会で「原発継続」を決定した。それが「健全な経営判断」となる環境を、「国策」が作り出してしまった。 国会で総理は、この原発事故は「人災」だと答弁した。しかしその災いをもたらした「人」とは誰を指しているのか。 ========================================== 映画「独裁者」のラストを飾る有名な演説で、チャップリンは憎しみや、貪欲、感情なき思想が人間を不幸にし、人を幸せにするはずの機械が貧富の差を作り人を孤立化させたと訴えている。そして家畜でも機械でもない人間よ独裁者の奴隷になるな!と叫ぶ。 チャップリンの目には、明確に人の形をした独裁者が見えた。我々の社会を支配しているものは、一見しては見えず、わからない。そこが恐ろしい。 2011年 06月 12日
村上春樹のバルセロナでのカタルーニャ国際賞受賞スピーチを、何度も何度も読んだ。こういう「言葉」を待っていた。震災直後大江健三郎がル・モンド紙に応じたインタビューとともに、私はこれからも何度も何度もこのスピーチを読み返すことになるだろう。 村上春樹はこのスピーチの後半を福島原発事故にあて、この事故を単なる「技術力の敗北」とせず、日本人の「倫理と規範の敗北」であるとした。日本は原爆被爆という過去を持ちながら、「効率」のために核に対する拒否をいとも容易く捨て、単なる「便宜」にすぎないものを、不可避の「現実」であると置き換えすり替えてしまった。そして彼は、この置き換えやすり替えを巧妙に演出してきた政府や電力会社だけの責任問題で片付けることはできないと述べている。それを許してしまった我々の「倫理的敗北」を問い直さなければならない。「我々は被害者であると同時に、加害者でもある」のだ。 自らの倫理性を問うこと、これがなければいかに大声で政府や電力会社を批判しようとも、一過性で上滑りのもので終わってしまう。国会では政府の原発対応に厳しい批判(というより非難、あざけり、怒号、ヤジ)が浴びせられている。新聞やTVでもそうだ。我々が政府への不満や怒りを持ちながら、そうした「批判」が心に響かないのがなぜか、はっきりわかったように思う。それは政府はもちろん、それを批判する国会議員にもマスコミにも、自分自身の倫理性への問い直しが欠如しているからだ。 原発が安全だと言いふらしてきたのは誰か。疑問や反対の声を、誰がどのようにねじ伏せてきたか。「カネ」はどのように使われてきたか。マスコミはそれらをどう報道してきたか。あるいは報道してこなかったか。こうした様々な疑問を、実際に関わった当事者はほとんど説明せず、反省しない。「(自分じゃなくて)あいつが悪い」の大合唱のみがある。 そして我々自身はといえば、知ろうと思えば知ることができた事実からずっと目をそむけてきた。そして今、長い間そうしてきた自らの知的怠慢と退廃に目を伏せようとしている。その怠慢と退廃の上で行われる「批判」に、力があろうはずがない。村上春樹が言うように、「我々は自らをも告発しなければならない」のだ。 かつて日本が敗戦したとき、「科学技術力で負けた」ということがいわれたと思う。そういう側面は確かにあった。しかし敗戦当時の日本人が自らに問い直したのは、それだけではなかったはずだ。日本の文化・思想・国家や政治のあり方全般を厳しく見つめ直したはずだ。それなしに日本の再出発はあり得ず、許されなかった。今回の原発事故でも、それが必要になるはずだ。それをしなければ、話は些末的な技術と対応の問題に矮小化される。津波堤防の高さや、電源装置や、配管とか弁とか・・・・。「それだけ」の話になってしまう。 自らの倫理を厳しく問い直すことこそが、倫理を欠くものへの最も痛烈な批判となる。 ====================================================== バッハのマタイ受難曲に、ペテロの歌う有名なアリアがある。イエスの捕縛後、イエスとの関係を問われた弟子のペテロは恐怖に駆られ、「イエスを知らぬ」と三度否認する。明け方の鶏鳴でわれに返ったペテロは、イエスを否認した自らの弱さと罪を心から悔い、嘆き、神に憐れみと赦しを請う。この部分で歌われるアリアは、心が深い傷を負い、その傷口から血の滴り落ちるような苦しみに充ちて歌い始まる。 Erbarme dich, mein Gott. 憐れみたまえ、我が主よ Um meiner Zähren willen! 滴り落ちるわが涙の故に! Schaue hier, Herz und Auge こを見たまえ、心も目も Weint vor dir bitterlich. 汝の御前にいたく泣くなり。 Erbarme dich, erbarme dich! 憐れみたまえ、憐れみたまえ そしてこの自分の弱さへの痛みと嘆きは、歌われるうちにしだいに深い慰めに満ちた響きに変わってゆき、キリストによる贖罪と神の恵みを歌うコラールへとつながってゆく。 このペテロの悔恨なくしてペテロはあり得ず、またキリスト教そのものも成立し得なかったのではないか。 一方我々は今、鶏鳴でもわれに返らず、何事もなかったかのように平然と次の日を迎えようとしているのではないか。 2011年 05月 29日
最近心が鬱屈して晴れないのは、「いったいわれわれの何がいけなくて、こんなひどい政治につきあわされるのか」という思いにかられるからだ。「何とかしてほしい」こと、「何とかしなければならない」ことは山のようにあるのに、政治の表舞台では全く愚にもつかない痴態が繰り広げられる。「言った」「言ってない」、「聞いた」「聞いてない」など、子供のけんかかと思うような次元の低い揚げ足取りと責任逃れ。自分の過去の責任とこれから果たすべき責任にはほおかむりし、政敵の追求のみに口角泡を飛ばす。「震災にも慌てず冷静さをもって対処する」と賞賛された日本人は、こんな愚劣な政治にも「我慢強く」耐えなければならないのだろうか。いやむしろ、その「我慢強く」辛抱しているように見えるわれわれ自身の中に、この愚劣な茶番劇を許してしまっている原因が何かあるのではなかろうか。 しかしこんな政治を許している原因は何なのか、その疑問に答えようとする言論は、ほとんど目にしない。こんなにメディアの形式が多様に百花繚乱花開きながら、そして山のように「情報」が飛び交いながら、中身は空っぽだ。震災から次第にほとぼりが冷めてきたのか、愚かしいバラエティ番組ばかりが幅をきかせ、訳知り顔の「コメンテーター」の、内容のない空疎な駄話が飛び交う。「愚神礼讃」の世界である。最近私は次第に、ニュースも聞かず新聞も広げなくなってきた。 私は今、「言葉」に飢えている。強靱な思考に支えられた「本物の言葉」に。その「飢え」は、今のマスコミや言論からは満たしてもらえそうにない。言っても全く仕方のないことだが、「もし加藤周一がもう少し長生きしてくれていたら今何を言ってくれただろうか」という詮の無い思いが、つい浮かんできてしまう。飢えた私が今向かうのは、加藤周一や丸山眞男が昔書いた文章である。 たとえば丸山眞男は、かつて日本の独立と再軍備を巡り世論が二分されていた頃、次のように述べている。 (1)日本では現実とは既成事実のことであるとされ、過去に選択された「仕方のない過去」が現実だとされる。現実を自ら創造していこうとする姿勢に欠け、「現実」とは外から与えられる所与のものとされる。 (2)現実の多義性が捨象され、現実の特定の側面だけが強調され「現実を直視せよ」「現実的地盤に立て」と叱咤される。 (3)その際強調される現実とは、その時々の支配権力が選択する方向であり、それに反対・抵抗する考え方は「観念的」「非現実的」とレッテルを貼られる。 (「「現実」主義の陥穽」) この文章は今も痛烈だ。再軍備だけでなくほとんどあらゆる問題に日本人はこのような「現実的」対応をしてきたのではなかったか。エネルギー政策や原発政策など、その典型的なものだ。 丸山眞男はこの小文の後半で「知識人特有の弱点」について痛烈な批判を加えている。以下の批判は書いた丸山自身にも諸刃の剣として返ってくる。もちろんそのことを丸山自身は厳しく意識し書いたに違いない。知的に誠実であるとはこういういうことだ。 (知識人は)しばしば自己の意図に副わない「現実」の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理屈をこしらえあげて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈服が屈服として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に耐えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果てしない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈服はもはや屈服として受け取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。かつての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずはこうして日華事変を、新体制運動を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化しました。一たびは悲劇といえましょう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したらそれはもはや茶番でしかありません。 こういう厳しい倫理観を持った上で公の場で発言する者が、今いったいいるのだろうか。「知識人」という言葉はもはや死語となった。誰も使わない。しかし消滅したのは「知識人」だけではない。精神的・知的誠実さそのものが消滅したのだと思われてならない。私の感じる「飢餓」の根源にあるのは、おそらくこれだ。 2011年 05月 04日
この本は今から30年ほど前に書かれたものを復刻・緊急出版したものだ。しかし今こそ、読むべき内容であることは間違いない。書かれていることは過去の事実だが、内容は全く古びていない。われわれが今考えるべきは、福島原発の事故の収束とあと処理だけではない。こうした原発を50以上も建設してきたその「経過そのもの」を、具体的に考え議論しなければならない。 原発の危険性への警鐘がいくつもの観点から述べられているこの本で、私が最も強い印象を受けたのは、地方における民主主義の崩壊の惨状である。「現代社会」の授業で「地方自治」を取り上げるとき、「地方自治は民主主義の学校」(英の政治学者 ブライス)というという言葉を紹介する。ネガフィルムとして、全く好ましくない形で、この言葉の意味することが照らし出されている。 この中に、私の住む中国地方にある島根原発の建設時に開かれた公開ヒアリングの記録が紹介されている。ヒアリングでの意見陳述では、建設反対派には厳しい時間制限が設けられる。専門家からの突っ込んだ問いかけに対し答える通産省側は、「十分安全性は確保されている」「十分安全管理がなされている」「十分安全が確認されている」と、納得いく根拠を示さないまま「安全」を繰り返す。ひどい場合には「この審査会ではそのような審査対象外の問いに答える必要なはい」と突っぱねる。「ヒアリングを開いたという形式が整えばそれでいいのだ」という姿勢が露骨にとられる。たまりかねた参加者の怒号が飛び交う中で、「議長」は事前のプログラム通り淡々と議事を進める・・・・。しかし全く議論になっていないこうした有様は、ほとんどマスコミ報道されることがない。報道されないものは、われわれにとって「存在しない」に等しい。 次に昭和58年に「原発先進地」敦賀市の市長が、新たに原発誘致に名乗りを上げた町で行った講演記録。この部分はテープ起こしをしており、この講演を聴いた聴衆の反応も書かれている。市長の講演内容は、要するに「原発を誘致すればいくらでもカネが入ってくる。電源交付金だけではない。いろんな名目で電力会社から裏金をいくらでもせびることができる。たかり放題だ」と言うことにつきる。このあけすけな講演に、集まった聴衆は笑い声を上げ、拍手を送りながら聞くのだ。調子に乗った市長は、「ちょっとした原発事故なら、補償交渉で大金をむしり取ることができる。一年に一回くらいは、そんなことがあればいいくらいだ」とまで言っている。そして短大や高校建設に運動公園など、敦賀市がいかに原発誘致で儲かったかを列記したあげく、講演の最後を「五十年後、百年後に生まれてくる子にどんな障害が出るかわからないが、今の段階では原発を誘致した方がいいのだ」と締めくくっている。こんな講演に拍手と歓声を上げる聴衆が、当時大勢集まっていたのだ。 福島原発事故で放射性物質が降下したり住民避難を迫られた自治体の多くは、かつて「原発との共存共栄」を行政の大黒柱にしていた。それらの地域では原発建設の時にどんな光景が展開されたのだろうか。もし建設当時、今回ほどの惨事を予想できていたら、どの自治体も決して原発誘致を認めなかっただろう。危険性の検討と議論を真剣に行わず、「安全ですよ」を連呼し原発建設に邁進した責任は国と企業にある。しかしそのためにはカネが有り余るほどばらまかれ、地域の理性を麻痺させる麻薬となっていった。そのことを、地域の人々は今どう考えているだろうか。もし事故が収束し、汚染が取り除かれ、「安全対策」がとられ、今まで通り(あるいはそれ以上)の金が期待できるのであれば、住民は原発を再び容認するのだろうか。 シビア・アクシデントがいったん起こればこれほどの広域被害をもたらす原発なのに、地域住民を納得させるだけで建設可能なのだ。そのためには多額の資金を注入することが何より有効だった。地域の外からの声は「政治的バイアスのかかった、ためにする議論」と偏向扱いされた。原発建設に、外国で行われるような国民投票や、本格的な国会論戦が行われることはない。理性的な躊躇や反対をかき消し、異端化してしまう風土は、今でも地方から中央まで至る所に蔓延している。 著者は再出版に際しての前書きで、「個人的感想に過ぎないが」と前置きした上で、「ひとたび原発が立地した地域社会には特有の「暗さ」が感じられたことだ。そうした地域では原発が立地するまでは活発であった賛否の声は消え、地方議会においても反対派はほぼ淘汰の憂き目に遭っていた」と書いている。 福島第一原発の事故は、現時点では確かに日本最悪の事故だが、考えられうる最悪の事故ではない。「想定外」の事故は原発だけでなくあらゆることに起こりうる。しかし原発事故ほど、人と土地と文化を傷つける事故は、ほかに考えられない。「福島」の教訓が、単におざなりの地震対策と津波対策で終わるとしたら(その可能性はとても高い)、今回以上の惨事に、いつの日か必ず日本は見舞われる。 2011年 04月 07日
原爆投下直後のヒロシマ。地下室でうめく重傷者の群れの中で、一人の若い女性が産気づく。絶望にうちひしがれていた人々は我が身の苦しさも一時忘れ、その女性と生まれてこようとする赤子のことを心配する。一人の瀕死の重傷を負った産婆さんが「私が助けましょう」といい、女性の出産を手助けする。息絶えた産婆さんのかわりに、一人の赤ちゃんが元気な産声をあげた・・・・。 自ら被爆を経験した詩人の栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」に歌われた情景である。極限の悲惨の中で生まれた一人の赤ん坊。それはどんな絶望のどん底でも持ち続けることのできる「希望」の誕生でもあった。 三月に東北・関東を大震災がおそった。連日報道される被災地の惨状や危機的状況に、直接被害の及ばなかった私たちの心も深く傷ついた。実際に被災した方々とは比べるべくもないが、私たち自身もまた「心理的被災」を経験したといえるかもしれない。そんな中、私はこの詩をよく思い出した。 栗原貞子さんのこの詩には、絶望のどん底をを生き抜いてきた人間の偉大さが歌われている。その根源にあるのは「希望」であり、困難の極みの中でも人のために生きることのできる力である。私は原爆の悲劇をも乗り越え、生き抜いてきた人々の強さと偉大をあらためて思った。人間は希望に支えられ、人を思いやり人に思いやられることで困難を乗り越える。逆に希望と思いやりなき社会は、いくら物質的に恵まれても私たちを幸せにしない。今度の震災後、テレビには東北の避難所の子供たちの顔がよく出てくる。避難所の中で迎えた卒業式のニュースも、数多く見た。被災地の子供たちは悲しみと窮迫の極地にあるはずなのに、けなげにも涙をぬぐい、将来への希望と決意を語るではないか。その表情は、平穏な毎日に慣れ、少したるんでさえいる私たちの心を、強く揺さぶる。 自然災害がどこに起こるのか、私たちにはわからない。東北の人々が震災に見舞われたのは不幸な偶然による。同じように、私たちが震災を免れたのも偶然でしかない。まず、たまたま被災せずにすみ、今現在ありふれた毎日を過ごすことができている幸せに感謝しよう。この平穏さは、かけがえのない恩寵なのだ。しかし当然、それだけで終わってはならない。被災した人々はもちろん、被災しなかった私たちの将来にも、多くの困難が待ち構えているに違いない。その困難はこれから何年も、あるいは何十年も続くかもしれない。人々の暮らしと社会の再建には多くの知恵と力を結集しなければならないだろう。そんな中で、たまたま難を逃れた私たちがすべきは、何だろうか。それはまずなにより、一日一日を真剣に、そして大切に生きていくことだろう。そして社会の一員として何が自分にできるのか、考えていこう。これからの社会がどれほど困難に満ちていようと、希望を失わない限り、必ず道は開ける。 いよいよ高校生活最後の一年を迎えた。この一年間が君たちにとって、希望を持ち、他人を思いやり、力強く人生を生きてゆく出発点になることを願う。 2011年 04月 02日
今回の原発危機て゛一番恐ろしかったのは、本当にどれほど危険な事態なのかが包み隠されていることがありありとわかってしまうことだった。原発の現状についても。また放射線被曝についても。マスコミ報道に出てくる専門家の「安全ですよ」という説明が、どうにも信頼できないのだ。 原発の状況は日々危機的になっていくのに、テレビでは最も楽観的で希望的な説明ばかりが繰り返された。しかし翌日には事態はさらに悪化するということがしばしば起こった。人命を守るためには最悪の場合を想定し行動するべきだろう。しかし実際には正反対のことが行われた。できるだけ事態を小さく見せたいという政府や電力会社の意向が露骨に見えていた。住民への避難指示の範囲も未だに首をかしげるほど狭いままにされている。 また放射線被曝についても、マスコミ報道が「直接健康への被害はない」「冷静に対応してほしい」と繰り返せば繰り返すほど、不安と恐怖が深まった。不安なく冷静に対応できるデータが明らかにされないからだ。逆に、一時間あたりの放射線データをレントゲン診断の放射線被曝と比べるような無茶な議論を平然と述べたり、今までの国の基準値とされていた被爆限度量が急に「それを超えても問題ない」値であるとされたり、実際には多種多様な放射線で汚染されているはずの水や農作物が、放射性ヨウ素だけの値で判断されたり、素人目にも納得のいく説明でなかった。海水から基準値の何千倍もの放射線が検出されても、「直接健康に被害はない」と繰り返すばかり。「直接健康に被害はない」という説明以外、するつもりがないのだなと思わざるを得ない。「こういうのを大本営発表というのだ」と思った。 こういう国や電力会社、マスコミなどの説明から生じる不安感は、事態の深刻さそのものから生じる不安感とはまた違うものだ。いくら事態が危機的でも、それを包み隠さず明らかにし、最悪の場合まできちんと説明し、その上で「最善を尽くすから慌てないでほしい」と言われれば、覚悟して待つこともできる。しかし無理矢理ごまかしながら「冷静になれ」と言われると、逆に「事態はよほど深刻なのだろう」と感じる。 外国メディアでは福島原発の汚染がどのように海洋や大気に広がっていくかシミュレーションが公表されたりしている。一方日本では、日本気象学会が研究者らに、大気中に拡散する放射性物質の影響予測の公表を自粛するよう求める通知を出したことが報道されている。この通知を出した東京大学教授は「不確実な情報を提供することは、いたずらに国の情報を混乱させる」と言う意味のことを述べたらしい。 原発建設時には「絶対安全」と断言しておきながら、いったん事故が起こると「依らしむべし、知らしむべからず」と愚民扱いする。核の犠牲者となった日本国民にとって、原発が危険なことは、いまさら報道管制してもすでに周知の事柄だ。だから原発で深刻な事故が起これば、何より国民の安全と生命を考えて対策や報道がなされるとわれわれは普通考える。しかし今回、福島原発の事故を通じ、全く逆のことが行われた。過酷で劣悪な環境で現場の復旧作業員を酷使し、周辺住民には「直接建康への危険性はない」と繰り返し長期間放射線被曝させ、国民には「パニックを起こさせないこと」が最優先された。どの場面でも「人間」は後回しにされた。こんなことがまかり通る風土で、原発建設などもはやあり得ない。 2011年 03月 30日
戦後、核兵器の保有を正当化する理由は、数多く生み出されてきた。核兵器の存在こそが世界の平和を守るのだと核保有国は主張してきた。しかし「被爆」を経験した日本国民は、どのように国際情勢が変わろうと自らが核兵器を保有することだけは、一貫してノーを言い続けてきた。日本国民の一人一人すべてが、核兵器を正当化する理論に反論できるわけではなかった。しかしいくら精密な理屈があろうとも、核兵器保有に賛成することはなかった。核兵器保有は、日本国民にとっては無条件で拒否すべき悪魔の論理であった。「被爆体験」とはそういうものだった。ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、国民全体の悲劇として共有されたのであり、一地方の悲劇とは誰も考えなかった。 今回、日本は違った形で再び「被爆」した。原子力発電もまた、その必要性を訴える山のような理屈が積み重ねられ、PRされてきた。今回の悲劇がどのような形で収束するにせよ、もう再びそれらの理屈に納得し、屈服してはならない。もし今回の悲劇を、単なる偶然や自然災害によるものととらえ、安全基準の見直しや小手先の技術改良にとどめるなら、そして原発政策をこれからも推進していくなら、それは二重の誤りを犯すことだ。 今回の原発事故は、いろんな感じ方やとらえ方ができるだろう。たとえば「原発が動かないとこんなに不便なのだ」と感じた東京の住民が、原発の必要性を改めて主張するという道だってあり得る。この事故を、単に一地方の悲劇ととらえるか、わが痛みとと感じるか。そこが分岐点だと思う。私にとって、福島第一原発の悲劇は、福島県やその周辺地域だけの悲劇ではない。どんなに経済的必要性が説明されようと、どんなに世界の趨勢が訴えられようと、「被爆」を経験した今、「原子力発電の否定」が私にとって議論のアプリオリのスタートラインである。政府も電力会社も、「原発なしに日本の電力需要はまかなえない」と言い続けてきた。その大声に「原発のない社会は可能だ」という声は、かき消され続けてきた。マスコミもほとんど取り上げてこなかった。われわれが聞こうとしてこなかった声を、もう一度真剣に聞かなければならない。 だがもし本当に、「原発なしにこれからの電力需要がまかなえない」のだったら・・・。われわれは、生活そのものを変えなければならない。 私が教員生活をスタートした翌年、旧ソ連でチェルノブィリ原発事故が起こった。そのとき私は震え上がり、当時出版された多くの原発問題の本を読んだ。毎年授業でも原発の問題を取り上げた。しかし私の「反原発」は年とともに弱まっていった。原発を積極的に正当化することこそなくても、いつかそれがあることを大きな問題と考えなくなってしまっていた。チェルノブィリ事故の頃、私の下宿部屋にはクーラーも電子レンジもステレオセットもなく、個人用パソコンももちろんなかった。しかしその後私の生活はあふれるように電気を使い、どんどん快適なものになっていった。私自身が、経済的利便性と原発を天秤にかけ、経済的利便を選択してきたのだった。そのことを私は悔い、大きな罪悪感を感じている。 2011年 03月 25日
今度の震災は日がたつごとに自然災害から人災へと変わりつつある。 なぜ、震災後二週間もたつのに、最低限の食料や水が手に入らない地区があるのか。しかもそれを報道するTVカメラが入ってきているのにだ。人跡未踏の辺境で起こっていることではない。 また、なぜ原発復旧のため危険を覚悟で働いている作業員が、カロリーメイトの食事になるのか。 海外では以下のような報道が出てきている。以下、引用。 米「タイム」が指摘 日本の支援は途上国以下 日本の救援体制は開発途上国以下――。22日、米誌「タイム」(電子版)がこんな批判的な記事を掲載した。 「官僚機構が救援を遅らせているのか?」というテーマで、「日本よりはるかにインフラ整備が遅れている開発途上国でさえ、災害発生から4日もたてば援助物資が被災民の手に届く。だが東北では10万人の自衛隊が救援活動を行っているにもかかわらず、援助物資が届くのに恐ろしいほど時間がかかっている」と指摘した。 同誌は日本の入り組んだ官僚機構に問題があり、規制好きな国民性が“合法的な壁”として立ちふさがっているとして、以下の実話を挙げている。 日本の船会社が湾岸地域に救援に向かうコンテナ船をヘリの着陸用に提供すると申し出たが、政府は船会社に正式な資格がないことからこの提案を断った。 来日した外国人医師団が患者の診察を申し出ても、日本の医師免許がないという理由で門前払い。医師らは医療行為ともいえない最小限の援助活動をするしかなかった。政府は地震から6日後の17日になって外国人医師の医療行為を認める方針を打ち出したが、遅きに失したといわざるを得ない。 また、海外から高齢の被災者のために薬品が寄付されたが、日本の行政当局が承認していないという理由で現地に届けることができなかった。 輸送業者は許認可特権を持つ官僚ににらまれるのを恐れて表立っては口にしないが、不満タラタラで物資を運ぶ許可を待っている。寄付された物資は地震と津波の数時間後には東京に届いたのに、いまも倉庫に眠っているというからバカげた話だ。 もちろん、政治家がその気になれば、こうした規制を取っ払うことができる。官僚機構と政治の怠慢が被災者を見殺しにしたといえそうだ。 引用終わり。ゲンダイネットより。 外国メディアの報道の紹介という形でこういう論評が紹介されることはあるが、日本のマスコミ自身がこのような報道をすることはほとんどない。メディアが問題を問題として報道しなければ、解決に向かわない。 私たちの国は今、助けられる人を助けずにいる。人の無策と無能で犠牲が広がるのを見るのは、つらい。 2011年 03月 17日
次のような記事を読んだ。 以下、引用。 大江さん、日本は再び核の犠牲に 仏紙と会見 大江健三郎さん 【パリ共同】ノーベル賞作家の大江健三郎さんは17日付フランス紙ルモンドのインタビュー記事で、東日本大震災に伴う福島第1原発の事故に触れ「日本の歴史は新たな局面に入った。再び(核の)犠牲者とのまなざしを浴びるということだ」との考えを示した。 大江さんは記事で、第2次大戦中の広島と長崎への原爆投下に言及し「核の炎を経験した日本人は、核エネルギーを産業効率の観点で考えるべきではない。つまり成長の手段として追求すべきではないのだ」と表明。 「地震や津波など今回の自然災害に際して、広島の経験を記憶に刻み付ける必要がある」とした上で「原発がいかに無分別なものかを証明した今回の過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する最悪の裏切りだ」として原発依存を強めている日本のエネルギー政策に対して強烈な異議を申し立てた。 引用終わり。 もう、我慢がならない。心は張り裂けそうだ。 原発をめぐる政府の対応は犯罪的だ。政府や東電はその場しのぎの気休めの措置を発表し続け、無理矢理安心させ、地震の被災民を自宅や避難所にとどまらせ続けた。そしてどうにもならなくなると急に避難や自宅待機を求める。しかもそこに、援助物資を責任を持って届けることはしない。原発の状況を見ると、さらに事態は取り返しのつかないことになっていきそうだ。かつてチェルノブイリ原発事故の時、旧ソ連政府は事故を自国民にすら隠し、知らせなかった。何も知らない原発周辺住民は事故の翌日、発電所前のプリピャチ川でのんきに釣りをしていたという。程度の差こそあれ、日本政府の対応にどれほどの違いがあるか。もう、外国メディアはパニック状態で、気休めを言っているのは日本の政府とマスコミだけだ。どこの国も広範囲な避難、あるいは日本からの脱出を自国民に勧めている中、日本政府だけがあきれるほど狭い範囲の避難と屋内待機の指示で済ませている。福島原発の事故がもはやコントロール不能な状態なのなら、あるいはそのおそれが高い確率であるのなら、最悪の事態を前提して対応すべきだ。パニックを恐れず、自衛隊、警察に大動員をかけ、諸外国並みの広範囲からの避難輸送をおこなうべきだ。そしてその受け入れ先を全力で作るべきだ。 報道機関も、民間の善意の報道ばかりしているときではない。もっと公、政府の果たすべき責任を厳しく追求し、論じてもらいたい。「未曾有の地震と津波の被害にもパニックを起こさず、冷静沈着にじっと忍耐をもって事態に向き合う日本人」と、諸外国では賞賛の声が上がっていると報道されている。しかしわれわれの本当の心の内は、不安と焦燥で爆発寸前の状態なのだ。直接被害の及ばなかった西日本に住む私ですらそうだ。現地で被災した人々の気持ちを思うと、心が壊れてしまいそうだ。NHKニュースで、屋内待機地域に含まれた福島県南相馬市の桜井勝延市長は、屋内待機とガソリン不足で動こうに動けない状態のわれわれを、国は見捨てるのかと怒りに満ちて訴えていた。 三月半ば。いつもの西日本なら、春うららかな陽光降り注ぐ毎日であるはずなのに、真冬のような凍てつく一日になった。こんな中、東北地方で放射能汚染の恐怖の中、暖房も食料も電気も水道もないまま放置された人々の絶望はどれほどのことだろうか。ひょっとすると、西日本にまで放射能は届かないですむかもしれないけれど、たとえそうでも、私の心の中は血を流さんばかりに痛い。 数日間の動きを振り返ってみると、原発が被災した初期段階で、絶対何か手があったはずだ。専門家でない私のような者にでも、そのことは分かる。感じられる。「できれば最小限の措置で対応し、原発の再稼働に備えたい」という、設備優先の考えが、対応を決定的に遅らせたに違いない。事態がこれで収束に向かうというのは、もうほとんど夢想に近いようにすら思われる。どこまで広範囲に放射能で汚染された国土をわれわれは持つのだろうか。一年後、日本は、私たちは、いったいどうなっているのだろうか。この原発事故は、きっかけは自然災害だが、それ以上に人災だ。もうこれ以上「人災」を広げないでほしい。現地の人々を救うことを最優先に、全力を出してほしい。会見や発表を求めているのではない。行動してもらいたい。 2010年 07月 05日
企業は安い労働力を血眼になって海外に求める。国民の雇用が減少しようが意に介さない。「法人税を上げれば国外に逃げるぞ」と平気で脅し文句を言う。部品にせよ原材料にせよ安ければ国外から喜んで買う。「国産品愛用」なんてことは決して言わない。言えば「企業利益を損なう」と株主が突き上げる。消費税が上がれば輸出企業は輸出還付金が増え、むしろ濡れ手で粟の利益が上がる。国内消費の冷え込みなんか目じゃない。企業はかくも易々と国境線を飛び越え、活動する。もはや現代において、企業に「愛国的」であることは求められていない。このような時代、企業利益が上がっても国民の豊かさとは直結しない。なのに我々は失われた高度経済成長期の幻影に絡み取られている。 企業は日本の枠を易々と乗り越えてしまうのに、我々は日本国内でしか主権を行使できない。企業の莫大な利潤は世界を股にかけた労働力の買い叩きや環境破壊によっているのに、それを規制する手段がない。その一方我々には国家単位の思考が求められ、「愛国心」が称揚される。我々は中国や韓国、ベトナム、インドの労働者を自分の利益を脅かす競争相手と意識させられる。賃金切り下げによる労働力の安売り競争をさせられる。本当はともに待遇改善を勝ち取るべく団結すべき仲間なのかもしれないのに。そんなことを我々が意識しないよう、巧妙に情報が操作される。スポーツや国際的表彰まで、国家意識を育む格好の手段とされる。我々の発想や意識が「クニ」に縛られる度合いが強いほど、我々をコントロールすることは容易なのだ。 2010年 05月 04日
今日、鳩山首相は訪問先の沖縄で普天間基地の県内移設を自ら表明した。普天間基地の海外移設を公言していた挙げ句がこうだ。迷走を繰り返したすえの鳩山首相の態度を優柔不断と叩くことはたやすいし、実際その通りでもある。しかし鳩山首相の姿は我々自身の姿そのものでもある。 More 2010年 02月 11日
映画「Invictus(負けざる者たち)」(C・イーストウッド監督)を観た。アパルトヘイト廃止後の1995年に南アで開かれたラグビー・ワールドカップでの南アフリカ・チームの戦いをもとにしている。このワールドカップ決勝戦で、アパルトヘイト時代国際スポーツ界から閉め出されていた南アフリカのスプリングボックスが、最強ニュージーランドのオールブラックスと戦い勝利し、マンデラ大統領から優勝トロフィーを受けた。 マンデラ大統領は、南アの黒人から白人支配階級のスポーツと見なされていたラグビーを、国民融和の象徴とし、自国開催のWカップ優勝を目指し南ア・チームを鼓舞する。ラグビーを白人たちの「敵性スポーツ」のように考える黒人たちを説得し、一方ほとんどを白人選手が占めるチームの主将を招き説得する。チームは大統領の求めに応じ黒人貧民区に入り、貧しい少年たちにラグビーの指導をする。白人選手たちは始めて足を踏み入れる黒人居住区の現状を見て、絶句する。 More 2010年 01月 25日
「上からの改革」には限界がある。これは高校レベル程度の世界史を学んだだけでも分かることだ。19世紀初めの「プロイセン改革」は保守的ユンカー層を温存した。ロシアの「改革皇帝」アレクサンドル2世は農奴解放令を出したが内容は不十分で、しかもすぐに反動化した。慈悲深き皇帝陛下、国王陛下にゆだねておけばすべてうまくいくなどということはない。 オバマ大統領は巨大な軍需産業と世界最強の軍隊を抱えた国の指導者である。いかにオバマが個人的に平和を指向する人物であったとしても、もし彼の政権の意志と決断に全てをゆだねてしまうのなら、決して沖縄の基地が減ることはない。沖縄の基地の移転や削減を本当に求めるのなら、まず日本国民の総意がそれを求めているのだという明確な意思表示が最低限必要となる。 More 2010年 01月 04日
理想の実現には長い時間がかかる。理想が正しければすぐに実現されてよさそうに思われるが、そうではない。理想が高ければ高いほど、現実世界の地平との距離は大きく開く。そして私たちには、実現を困難にする障害ばかりが目に入る。しかし実現の困難さと、実現にかかる時間の長さこそが、その理想が本物である証(あかし)である。 今はほとんどの人が肯定する「絶対的正義」も、かつては許されざる「危険思想」だった。フランス革命が「自由」「平等」の旗印をを掲げたとき、それに歓呼の声を上げた人と、それに恐怖と嫌悪を感じた人と、果たしてどちらが多かっただろうか。19世紀の100年間をかけて、世界は自由と平等による社会形成の術を試行錯誤し、学んでいった。そしてその苦闘は今なおつづいている。 自由・平等に比べたとき、「平和」はさらに年若い理想である。20世紀初頭までは、「平和」は人々に広く受け入れられた理想とは言えなかった。それはトルストイやロマン・ロランなど、ごく限られた人々の理想であった。この理想が広く人類に共有されるためには、まず第一次大戦という惨禍を経験せねばならなかった。しかし主戦場とならなかったヨーロッパ以外の地域では、例えば日本では、さらに第二次大戦を経験する必要があった。 世界史を教えていると「なぜ現実は理想と大きく食い違うのか」という疑問にしばしば突き当たらざるを得ない。私が高校生たちに世界史という科目を教えていなければ、こういう疑問はもたなかったただろう。生徒たちが直接このことを私に聞いてくることは、今まで一度もなかったけれど、授業をしている私の脳裏にはこの問いがいつも澱のように沈殿していた。例えば戦後史の授業で「第三世界の非同盟中立主義」を取り上げるときがそうだ。非同盟中立主義は、平和の理想と深く結びついている。東西冷戦の現実に翻弄される中からこの言葉は生まれた。しかしこの理想は現在、全く無力なように見える。 More 2009年 12月 10日
今から10年以上前にNHKが放映した番組に「映像の世紀」というシリーズがあった。その中の「大量殺戮の完成 第一次世界大戦」という番組は忘れがたい。 番組の冒頭は第一次世界大戦が始まった時の各国民衆の熱狂ぶりで始まる。ドイツのある若者は、徴兵命令を喜びと高揚感を持って迎える。彼は手紙の中で、「僕はもう、平和な時代の人間ではありません。こんな時に自分や家族のことを考えると、小さく弱くなります。国民や祖国のことを考えると強くなれるのです」と書いている。1914年7月に開戦した時、敵も味方も、「クリスマスには戦争はかたがつき故郷に帰れる。また生きて会おう」と誓い合って戦場に赴いた。 番組は、その戦争が如何に当初の予想と違う残酷で悲惨なものとなったかを、雄弁な映像資料で物語る。 そして番組の最後、愚劣な戦争で廃墟となったヨーロッパの都市の空撮映像にのせ、第一次大戦中イギリスの海軍大臣を務めたW.チャーチルの回想録の一節が流れてくる。勝者であるはずの彼の沈痛なまでの言葉で番組は締めくくられる。 「(これからの戦争の)英雄は、安全で物静かな事務室にいて、書記官達にとり取り囲まれて座る。一方、何千という兵士達が、電話一本で機械の力によって殺され、息の根を止められる。これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺すことになるだろう。やがてそれぞれの国には大規模で限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊のシステムを生み出すことになる。人類は、はじめて自分たちを絶滅させることができる道具を手に入れた。これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。」 More 2009年 12月 08日
今年、慣れない現代社会の授業を担当している。医療・福祉問題を扱う単元で、生徒たちに一つ問うた。スウェーデンのような北欧型の高負担高福祉型の社会と、日本やアメリカ型の低負担・低福祉型の社会と、どちらがいいか? 手を挙げてもらうと、生徒たちの意見はほぼ二分される。 次に、スウェーデンの「高福祉」とはどのようなものか、ここで資料を読んでもらった。スウェーデンで暮らす日本女性の記録である。 ・教育は私立も含め、小学校から大学院まで無料。海外留学の時まで奨学金が出る。教科書や教材、学用品まで無料で支給される。 ・親の所得や当人の財産などには全く関係なく、誰でも無料でで大学や大学院で学ぶことができる。 ・医療費は全額無料。出産費用も全て無料。「陣痛が始まったら、病院にスリッパだけ持ってきてください」と言われ、本当にスリッパ以外の必需品が全て揃っていて自由に使える・・・・等々。 「高福祉」の実態ががこのようなものだと知った上でもう一度挙手を求めると、かなりの生徒が高負担・高福祉型の社会がいいと意見を変える。 次に今度は、スウェーデンの「高福祉」を支えている「高負担」の実態を見てもらう。たとえば、 ・国民負担率(租税+社会保障負担の合計が国民所得に占める割合) スウェーデン 約70% 日本 約40% ・消費税率 スウェーデン 25% 日本 5% この数字を見せて再度挙手を求めると、さっきは高福祉・高負担型社会が良いといった生徒のかなりの数が、再び低負担・低福祉型社会が良いと意見を変える。結局最初に戻る。 More 2009年 11月 07日
アフガニスタンで長く支援にあたっている中村哲医師のペシャワール会の会報は、アフガニスタンの現状を一番わかりやすく的確に私に知らせてくれる。ペシャワール会の活動は医療支援から始まったが、今は長引く干ばつ対策の井戸掘りや水路建設に力をさいている。 10月の会報に中村医師のこんな話が掲載されている。 地元の人と協力して作り上げた水路ができあがったとき、米軍のPRT(地方復興チーム)がやってきて、水路上にある水量調節のための池を養魚池に転用すると言ってきた。そんなことをされれば水量調節が不可能になってしまう。かなり強引に求めてくるPRTの米軍将校に対し、中村医師は「取りたいなら力づくで取ればよい。諸君の強大な武力に抗しうる者はいないではないか。但し、混乱の責任は君らに取ってもらう」と強く拒絶した。そして次のように書いている。 PRTに配属される将校はほとんど実情を知らされないまま、「復興だからいい」と信じている。しかし現地の人々は米軍の「復興活動」を軍事活動の一つと見ている、と。 またペシャワール会の別のスタッフの話。彼が働く診療所に、米軍の装甲車四台に囲まれてPRTのスタッフがやってきた。彼らは高価な薬を住民に配ると言い出した。ペシャワール会のスタッフは診察もせずに薬を配ることに反対し通したが、米軍のスタッフは相当しつこかったという。PRTチームが引き上げたあと診療所を出てみると、何百人もの住民が診療所を取り囲んでいた。そして「もし米軍を受け入れていたら、住民は(診療所を)敵と見なしていたよ」と言われ、冷や汗をかいたという。 More 2009年 09月 14日
その昔(旧幕府時代)の道徳はどんなものであるかというと、完全な理想の型をこしらええて、その型を標準としてその型は誰でも努力の結果実現出来るものとされた。だから忠臣でも孝子でも貞女でも、悉く完全な模範を前に置いて、我々のような至らぬものも意志の如何、努力の如何に依ってはこの模範通りのことが出来るんだといったように教えられた。・・・・(中略)・・・・ こういう風な模範的な忠臣孝子貞女を押し立てて、それらの存在を認める位だから、個人に対する社会の一般の倫理的要求はずいぶん過酷なものであった。また個人の過失に対する一般の倫理上の要求はずいぶん過酷なものであった。少しの過ちがあっても許さない、すぐ命に関係してくる。昔の人は何ぞというと腹を切って申し訳をしたのは諸君もご存じである。・・・・(中略)・・・・ 今の人から見れば、完全かもしれないが実際あるかどうか分からない理想的人物を描いて、それらの偶像に向かって絶え間なく努力し、そして社会からは徳義上の弱点に対して容赦もなく厳重に取り扱われて、よく人が辛抱していたものだと思うが、これにはいろいろの原因があるだろう。第一には今のように科学的観察が行き届かなかった。つまり人間はどう教育したって不完全なものであるということに気付かなかった。不完全なのは、我々の心根が至らず横着だからであり、修養を重ね向上しなければならんという考えで一生懸命努力したのだ。即ち昔の人には批判的精神が乏しかった。昔からいい伝えている孝子とか貞女とか称するものが、そっくりそのままの姿で再現出来るという信念が強くて、批判的にこれらの模範を視る精神に乏しかった。一口にいえば科学というものが余り開けなかったからといってよい。・・・(中略)・・・・ 今の時代の人は昔に比べるとよほど倫理上の意見について寛大になっていることが分かる。これが制裁が厳重で模範的行動を他に強いなければ已(や)まない旧幕時代であったら、こんな露骨なことを無遠慮にいう私はきっとただではすまない。私らのような年配の過去に比べると、今の若い人はよほど自由がきいているように見える。また社会がそれだけの自由を許しているように見える。 1911年(明治44年)11月10日大阪での講演(「文芸と道徳」岩波文庫 漱石文明論集 より 大意) More 2009年 09月 02日
教員になってから今までを振り返った時、不登校に陥ってしまった生徒でとても目立つのが、「まじめ」な子だ。「まじめ」だけれど、不器用で友達をうまく作れなかったり、「まじめ」だけれど勉強が苦手だったりする子・・・・。こういう生徒は、「まじめ」なだけに、自分がうまくやれないことに悩み、それが嵩じると、重症化して学校に来れなくなってしまう。いまの学校は、こういう生徒たちが居場所を見つけるのが難しいのだろう。そしてわれわれ教師は、そんな状況に手をこまねいて右往左往している。 一方、勉強が苦手だったり、対人関係で問題を起こしがちでも、そのことに頓着しない生徒は不登校になるようなことはない。「そういう生徒こそたくましく、生きる力があるんだ」と言ったりする人もいる。 確かにそうかもしれない。でも私は、そういう、ある意味面の皮の厚い「生きる力」や「逞しさ」を好まない。そんな「逞しい」人間ばかりがあふれる世の中になることを私は望まない。線が細く不器用で気弱でも、まじめで誠実な人が居場所を見つけられる世の中であってほしいのだが。そう望みつつ、われわれはスピードがあって反応が早い生徒しか居場所を見つけにくい、そんな学校を作っている。 2009年 08月 22日
今年の一学期はまるで1年が過ぎたのではないかと思うほど、異様に長く感じた。仕事が今まで以上に忙しくなったからだろうと、学期中は思っていた。今まであまり担当したことのない「現代社会」という科目を持ったという事情もある。でもそんなことだけではなかった。 1学期の終わり頃決心し、ほとんど満足にできなかった教科の勉強をしようと思った。夏休み中自腹でセミナーをとり、何回も東京と大阪に行った。セミナーは1日50分×6コマ。これを何日も受けた。そしてセミナーの合間には、東京・大阪の美術館や博物館、展覧会を見て回って過ごした。時間はあっという間に過ぎていった。この数日間は「充実した忙しさ」だった。そしてすり切れかかっていた気持ちはぐんぐんリフレッシュしていった。 More 2009年 06月 27日
ペルシア戦争の勝利でギリシア世界の盟主となったアテネは、ライバル・スパルタとのペロポネソス戦争に敗れた。 「はっきり言えるのは、かれら(アテネの衆愚政治家)が戦勝と政治的支配によって土地や奴隷やその他の戦利品にあずかりたいという貧市民たちの夢に迎合し、いな、夢をかき立て、説得のためにはそれこそデマをも辞せぬ型の人間だったことである。かれらの身ぶりたっぷりの弁舌に感激した民衆は、すでに衆愚であり、民主政は衆愚政へと堕ちて行った。」(旧版 「世界の歴史 2」 中央公論社 村川堅太郎) More 2009年 04月 08日
入学おめでとう。新しく本校生徒となった諸君とともに頑張っていくことをとても楽しみに思っています。 最初にあたり、君たちに医師の中村哲という人を紹介したいと思います。この人はアフガニスタンという国で難民の支援と現地の医療援助・農業復興に長い間たずさわってきた人です。アフガニスタンは干ばつと長い戦乱で荒廃しきっている貧しい国です。彼は現地でながく暮らしながら、地道な援助活動にたずさわってきました。中村医師と彼の主宰する援助団体が一番力を入れているのが、干ばつで乾燥した大地に井戸を掘り、用水路を引き、農業が可能になるように支援する活動です。彼が自らの活動を記した本「アフガニスタンで考える ~国際貢献と憲法九条~」(岩波ブックレット)は、学校の図書館にもあります。内容は濃いけれど、薄い本ですからすぐに読めます。 More 2009年 03月 15日
昨日、NHKが作った加藤周一の追悼番組の再放送「今をどう生きるか ”知の巨人”加藤周一が残した言葉」を見た。 最晩年のインタビュー番組を中心に再構成されたものだった。しかし腰が曲がった加藤周一の目の、なんと鋭いこと。目だけが、まるで別の生き物のように見えた。そして、いらぬことを一切いわず、本質に切り込んでいく彼の言葉の明晰さ、簡潔さ、強さ。 More 2009年 03月 06日
今日一日、国公立大学入試前期日程の合格発表が相次いだ。 高校三年生の担任にとって、大学の合格発表の日はとても辛い一日になる。みんな合格するのなら良い。合格した喜びにあふれて報告に来る生徒を祝福し、互いに心から笑い合える。でもそんなことはあり得ない。合格を告げる生徒の横で、不合格の辛さを唇かんでかみ締める生徒がいる。合格した生徒の笑顔は、ますます彼ら彼女らの辛さを増幅してゆく。 2009年 02月 24日
アフガニスタンで去年殺されたNGOのペシャワール会の現地スタッフ伊藤さんを、先日NHKが取り上げた。ペシャワール会は干魃に見舞われたアフガニスタンの各地に灌漑・用水施設を建設し、農業指導を行い、医療施設を作り、アフガニスタンの人々を支えてきた。伊藤さんはその現地スタッフとして赴き、金銭目的の武装グループに誘拐殺害された。視覚・聴覚効果は抑制されていて、番組作成者の伊藤さんへの鎮魂の思いを感じさせる。 わずか半年前の事件を遠い過去の出来事のように忘れ風化させていく日本において、非常な努力と使命感なしにはこの番組があり得なかっただろうことは、見ていて伝わる。番組の後半は、「テロとの戦い」がいかにアフガニスタンの人々の憎悪をかき立て、伊藤さんたちの活動を危機にさらしていったかを示す。そして日本がその「テロとの戦い」にどう関わったかも。今の日本の政治・社会状況の中でこの番組を作るのは、相当な決意を要したはずだ。この番組を作ってくれたNHKに私は感謝し、敬意を表する。 番組を見た私はあらためて、次のような映像に心打たれる。 干魃で全くひからびてしまった茶色の大地に伊藤さんたちの努力で水が引かれ、若々しい緑色に染められていく奇跡の光景。そして一面の菜の花畑の中で、はちきれんばかりの笑顔を浮かべるアフガニスタンの子どもたち。 何年にもわたる現地の人々と伊藤さん達の苦労の果てに、やっと収穫された葡萄やさつまいもを手に掲げたアフガニスタンの子どもたちの、眩しいばかりの目の輝き。 そして長年重ねた苦労の証の深い皺が刻まれた細身のアフガニスタンの男性の、柔らかく優しい表情。 生存の危機に日々直面しながら暮らしているアフガニスタンの人々が見せるあのような笑顔を、「百年に一度」の経済危機に遭遇しながら、一日として飢えることのない日々を送っている私は、一度たりとも見せたことがない。また私の教える生徒や周囲の人々も、あんなきらきらとした目を見せることは決してない。 More 2009年 02月 20日
先日NHKの番組「その時歴史が動いた 3000万の署名大国を動かす」で、第五福竜丸の被爆とその後の動きが取り上げられていた。第五福竜丸の被爆をきっかけに日本の女性たちが各地で始めた核実験反対の署名が、わずか1年あまりで3000万を超える署名を積み上げ、第一回原水爆禁止世界大会の開催を実現した。さらに世界の世論を動かし、部分的核実験停止条約の調印にまで繋げていった。 番組を見て、私は忘れていたものを思い出し、はっとした。まず第一に、部分核停条約の成立に大きな役割を果たした日本の署名活動の取り組みについてだ。今の高校に赴任するまで、私は戦後史の授業の中で必ず、かなりの時間をとって核兵器反対の取り組みについて触れていた。そして部分核停条約の成立に日本国民が果たした役割も、生徒に話していた。しかし今の高校に赴任して、それをやめていた。何より、授業時間がなかった。世界史全体の授業時間数が以前の学校よりはるかに少なく、第二次大戦後の歴史に振り向けられる時間は10時間あるかなしになった。しかも大学入試に関わるプレッシャーははるかに強い。そんな中で、私は核問題に関するテーマを、年々省略していった。 しかしはっとした理由は、そのことだけではない。 More 2009年 01月 28日
高校三年生の生徒・保護者・担任にとって今一番苦しい時期だ。 大学入試センター試験が終わり、三者面談の真っ最中で、ここ数日中で国公立大学の出願先を決めなければならない。センター試験の成績が重くのしかかる。 前回三年生の担任をした時は、「合格できるかどうか」を出願先を決める最大の判断材料にして面談に臨んでいた。 「この大学は厳しいと思います」 「こちらの方が可能性が高いでしょう」 「模試会社のリサーチから今年の志願状況を見ると」 「センター試験の結果はこうなっています。二次試験での力を考えると」 More 2009年 01月 12日
もうすぐオバマ米大統領が誕生する。2009年はアメリカ史の画期的な1ページとなる。ちょうど100年前の1909年、ガーナ独立の父エンクルマが英領ゴールド・コーストで生まれた。私にはエンクルマのたどった路がオバマと重なって見えてくる。 エンクルマは首都アクラの師範学校を卒業し神学校で教師をしていたが、叔父の援助でアメリカに留学することができた。しかしリンカーン大学などで学位を取得した彼を待ち受けていたのは、公民権運動以前の差別渦巻くアメリカ社会だった。大学の学位など全く意味を持たず、魚の行商、ウェイター、ホテルのベルボーイのような仕事にしか就けなかった。時にはブルックリンの地下鉄の座席をベッドにしたり教会の慈善給食で飢えをしのぐホームレス生活を強いられた。 その後彼はイギリスに渡り、ロンドンで学ぶうちにデュ・ボイスやケニヤッタら、アフリカ民族主義の活動家と知り合い、アフリカを植民地主義から解放するための戦いの先頭に立つことになる。1957年、ゴールドコーストはイギリスから独立を達成し、彼はガーナ共和国の初代大統領になった。(以上「ドキュメント 戦後世界史」 浜林正夫・野口宏 地歴社 より) More |
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